QRコード
QRCODE

和歌山の情報発信
ブログポータル

ログインはTOPページで
私も作ってみる


[PR] 和歌山情報ブログでチェックイコラブログ
[PR] 商品ページ1ページからリニューアル!!楽天ヤフーOK!現在キャンペーン


アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人

2025年05月23日

北方4島物語

投稿18回目:R7/5/23(金)
〇3章b:訪ロから挫折まで
◇2019(平成31)年1月に、安倍内閣交渉団一行は、ロシア連邦政府と【平和条約】をはじめとした前記した「3案」の詰めに「モスクワ」を訪れます。「モスクワ」では、「日ロ」首脳会談を前に、日本国名北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)実際の交渉では(色丹島、歯舞群島)の2島であると考えられますが、記事では、北方4島の引き渡しに反対する声が強まっていたとあります。「市民」の反発の矛先は「日本国と交渉を続ける「プーチン大統領」率いるロシア連邦政府に向かい、「プーチン政権」は神経をとがらせている。既に「政府高官」からは、「領土引き渡し」の可能性を否定する発言が相次いでおり、交渉の行方は増々見通しにくくなっている。会談が予定されている22日の8日前の14日には、両国外相による「ワーキングランチ」を終えた直後の午後3時すぎ、「ラブロフ外相」は、硬い表情で記者会見を始められます。「我々の間には本質的な意見の相違がある」最初に強調されたのは、【平和条約】交渉の前提は、「第二次世界大戦の結果を日本が認めること」というロシアの基本姿勢であった。
  


Posted by たからふじ at 08:14Comments(0)

2025年05月22日

北方4島物語

投稿16回目:R7/5/23〇22日からの続き、
◇1956年に調印された【日ソ共同宣言】後、日ソ間で4島返還交渉を努力するも、結果としてみれば遅々として進展していない状況、及び、近年「ロシア連邦政府が」「択捉島」での大規模とした観光事業」及び、「色丹島」に大規模とした近代的な魚処理施設等の完成に伴う、幼稚園等住民福祉施設による生活水準も充実し、現4島における島民の人口が、「日本国土」としていた時と同等の人口に達している事実を見るにおいては、猶更として、一刻も早く【平和条約】を果たし、2島(色丹島、歯舞群島)のみでも、「日本国領土」に復旧させと置くべきと、安倍首相は、判断されたのではないでしょうか。その考えの基に、「森首相、、小泉首相、先達の首相」が、【平和条約】の締結の条件としてきた(4島の帰属の問題)を解決した後に【平和条約】を締結するとの方針から、両国共に満足とする【平和条約】案を整えて、【平和条約】を締結すると、方針転換を示唆する内容となって行きます。その結果、2島のみの返還としながらも、【平和条約】調印の運びに至るだろうと予測されたのが、第2回目となる会談から、約5年半後の2018(平成30)年11月「シンガポール両首脳会談)までに合意されたと予測できる3項目とした、①新しいアプローチにより、「日ロ」双方に受け入れ可能な【平和条約】の締結後に、色丹島、歯舞群島の返還を果たす。②北方4島において、特別な制度の下で「日ロ」両国共に潤うとした「共同経済活動」を行う為の協議の開始。③元日本国島民の方々による墓参のための手段の手続き。との3項目でであったのではないかと予測します。次回は、第3章最後となる「安倍首相の「訪ロ」から挫折までとします。
  


Posted by たからふじ at 18:13Comments(0)

2025年05月22日

北方4島物語 3章a:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領会談記録

投稿15回目:R7/5/21(木)
〇2018(平成30)年11月シンガポールでの首脳会談
◇安倍首相とプーチンロシア連邦大統領は、2016年12月(ソチ非公式訪問時の首脳会談以降)、新しいアプローチの下での
協力の積み重ねにより、培われた信頼の上に、1956年に成立している【日ソ共同宣言】を基礎として【平和条約】交渉を加速させることで合意した。検証:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領の、2013(平成25)年に訪ロされた会談記録を見るにおいては、「2003年の小泉首相とプーチンロシア連邦大統領会談」における、共同声明及び共同計画において解決すべきことが確認された問題(4島の帰属の問題)を最終的に解決することにより【平和条約】を締結するとの決意を表明した。」このように、安倍首相も第一回の会談においては、森首相、小泉首相、先達の首相が【平和条約】を締結する条件としてきた、(4島の帰属の問題)をまずは解決し、その後、【平和条約】を締結すると表明されていたが、2回目以後の交渉記録を見るに、「交渉の停滞を打破し、突破口を開くため、双方に受け入れ可能な解決策の作成に向け、今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で交渉を精力的に進めて行くとの認識を共有した。」とあります。
  


Posted by たからふじ at 05:56Comments(0)

2025年05月22日

北方4島物語 3章a:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領会談記録

投稿15回目:R7/5/21(木)
〇2018(平成30)年11月シンガポールでの首脳会談
◇安倍首相とプーチンロシア連邦大統領は、2016年12月(ソチ非公式訪問時の首脳会談以降)、新しいアプローチの下での
協力の積み重ねにより、培われた信頼の上に、1956年に成立している【日ソ共同宣言】を基礎として【平和条約】交渉を加速させることで合意した。検証:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領の、2013(平成25)年に訪ロされた会談記録を見るにおいては、「2003年の小泉首相とプーチンロシア連邦大統領会談」における、共同声明及び共同計画において解決すべきことが確認された問題(4島の帰属の問題)を最終的に解決することにより【平和条約】を締結するとの決意を表明した。」このように、安倍首相も第一回の会談においては、森首相、小泉首相、先達の首相が【平和条約】を締結する条件としてきた、(4島の帰属の問題)をまずは解決し、その後、【平和条約】を締結すると表明されていたが、2回目以後の交渉記録を見るに、「交渉の停滞を打破し、突破口を開くため、双方に受け入れ可能な解決策の作成に向け、今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で交渉を精力的に進めて行くとの認識を共有した。」とあります。
  


Posted by たからふじ at 05:56Comments(0)

2025年05月21日

北方4島物語 第3章:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領

投稿:14回目/R7/5/21(水)
◎第3章:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領との会談により、「合意されたと見るべき【平和条約】」締結と同時に「色丹島、歯舞群島」が日本国に返還される。との案は、どのような過程を得て成立したのか。及び合意されていたと見るべき3案の成立を目指されるされるも、最終会談を前に「ラブロフ外相」による、合意案成立の拒絶ともとれる談話により、結果として生じた「安倍首相の遺産(Legacy)が生ずるまでの経緯
〇3章a:安倍首相とプーチンロシア連邦大統領会談記録。
◇2013(平成25)4月安倍首相の訪ロ
(1)共同声明において、戦後67年を得て日ロ間で【平和条約】が存在しないことは異常であるとの認識を共有し、双方の隔たりを克服して、「2003年小泉首相の訪ロ・プーチンロシア連邦大統領との共同声明及び共同計画において解決すべきことが確認された問題(4島の帰属の問題)を最終的に解決することにより【平和条約】を締結するとの決意を表明した。
(2)【平和条約】問題の双方に受け入れ可能な解決策を作成する交渉を加速させるとの指示を両国外務省に与えることで一致した。
◇2016(平成28)年5月安倍首相の「ソチ」非公式訪問。これまでの交渉の停滞を打破し、突破口を開くため、双方に受け入れ可能な解決策の作成に向け今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で交渉を精力的に進めていくとの認識を共有した。
◇2016(平成28)年12月プーチンロシア連邦大統領の訪日。プーチンロシア連邦大統領が訪日された「山口における首脳会談では、両首脳だけで長時間にわたり、【平和条約】問題について率直かつ非常に突っ込んだ議論が行われた結果、この問題を解決するとの両首脳自身の真摯な決意が示された。その上で「北方4島」において、特別な制度の下で、共同経済活動を行う為の協議の開始に合意するとともに、元住民の方々による墓参の手続きを改善する事で一致した。
  


Posted by たからふじ at 06:47Comments(0)

2025年05月20日

北方4島物語

投稿13回目:R7/5/20(火)
〇2章e:1999(平成11)年12月31日「プーチンロシア連邦大統領」が誕生し、森首相、小泉首相、安倍首相とした日本国首相との会談記録
◇2001(平成13)年4月26日~2006(平成18)年9月26日までの小泉政権が誕生します。
◇2003(平成15)年1月小泉首相の訪露(1)共同声明において、両首脳の間で、4島の帰属の問題を解決し、【平和条約】を可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常化すべきとの「決意」を確認した。(2)「日ロ行動計画」において、1956年日ソ共同宣言、1993年東京宣言、2001年イルクーツク声明の3文書が具体的に列挙され、その他の諸合意と併せ、今後の【平和条約】交渉の基礎とされた。日ロ間で有効な国際約束に1956年の【日ソ共同宣言】も含まれると発言
◇2000(平成12)年4月5日から、2006(平成18)年9月26日までとする森政権と小泉政権の約6年5月間において、森首相、小泉首相共に訪ロ、また、プーチンロシア連邦大統領も訪日され、「両首相」と会談を重ねられ、ロシア連邦との「4島返還交渉【平和条約】締結への機運が高まりますが、ここにして小泉政権後の6政権(安倍一次内閣、福田内閣、麻生内閣、鳩山内閣、菅直人内閣、野田内閣)においての、プーチンロシア連邦大統領との【平和条約】締結(4島の返還)交渉への会談記録を見出すことができず、その間とする約6年間の空白期間?を得、2012(平成24)年12月26日より、2020(令和2)年9月16日までの約7年9か月間とする安倍第2次、3次・4次とする長期政権が誕生することとなります。
  


Posted by たからふじ at 06:29Comments(0)

2025年05月19日

北方4島物語

投稿12回目:R7/5/19日(月)◎第二章:【サンフランシスコ平和条約】会議までの経緯
〇1999(平成11)年12月31日、プーチンロシア連邦大統領が誕生し、森喜朗首相、、小泉純一郎首相、安倍晋三首相とした日本国首相との会談が再開されます。
◇2000(平成12)年4月5日から2001(平成13)年4月26日までとする森政権が誕生します。
◇2000(平成12)年9月「プーチンロシア連邦大統領」「森喜朗首相」、との会談記録
(1)【平和条約】の問題に関する両首脳の声明において
―クラスノヤルス合意の実現のための努力を継続することを確認。
-これまでの全ての諸合意に立脚して、4島の帰属の問題を解決することにより【平和条約】を策定するため交渉を継続することを確認。(2)プーチンロシア連邦大統領が「1956年宣言は有効であると考える」と発言した。(3)プーチンロシア連邦大統領は、川奈会談は、日本側の「勇気と熟慮の成果」であったとしながらも、「妥協については我々の考え方」と完全に一致していないとして拒否した。
◇2001(平成13)年3月25日に訪露されたモスクワのイルクーツクで会談され声明が採択され、「日ロ両国」が、クラスノヤルスク合意に基づき【平和条約】の締結に向けて全力で取り組んできた結果を総括し、新たな基礎を形成した。
◇2001(平成13)年3月イルクーツク首脳会談、イルクーツク声明において、(1)1956年【日ソ共同宣言】を交渉プロセスの出発点と位置づけ、その法的有効性を文書で確認した。(2)その上で、東京宣言に基づいて、4島の帰属の問題を解決して、【平和条約】を締結するとの日露共通の認識を再確認した。
  


Posted by たからふじ at 06:58Comments(0)

2025年05月18日

北方4島物語

投稿12回目:令和7年5/18(日)
◎第2章:【サンフランシスコ平和条約】までの経緯
〇2章d:【日ソ共同宣言】から「プーチンロシア連邦大統領と森首相・小泉純一郎首相会談までの歴代首相の会談記録
◇田中角栄首相の訪ソ1973(昭和43)年ブレジネフ首相会談【日ソ共同声明】におい、、「第二次世界大戦からの未解決の諸問題を解決して【平和条約】を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、【平和条約】の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記された。それにもかかわらず、その後ソ連は長い間「領土問題は存在しない」との態度をつり続けることとなります。
◇1991(平成3)年4月ゴルバチョフ大統領方訪日され、海部俊樹首相との会談記録日ソ共同声明においてソビエト連邦、4島の名前を具体的に書き、領土問題の存在を初めて文書で認めた。
◇1991(平成3)年8月保守派によるクーデター未遂事件が発生し、12月「ソビエト連邦」は崩壊」し、「ロシア連邦」が誕生しました。
◇1991(平成3)年4月ゴルバチョフ大統領方訪日され、海部俊樹首相との会談記録、共同声明では、ソ連側は、4島の名前を具体的に書き、領土画定の問題を初めて文書で認めた。
◇1993(平成5)年10月エリツィン大統領の訪日、細川護熙首相との会談記録
⑴東京宣言(第2項)において
(イ)領土問題を北方4島の帰属に関する問題と位置づけ
(ロ)4島の帰属の問題を解決して【平和条約】を締結し、両国関係を完全に正常化するとの手順を明確化し、
(ハ)領土問題を1)歴史的・法事的に立脚し、2)両国の間で合意の上作成された諸文書及び3)法と正義を基礎として解決するとの、明確な交渉指針を示した。(2)また東京宣言は、日本とソ連との間の全ての条約その他国際約束がロシアとの間で引き続き適用されることを確認した。エリツィン大統領は記者会見で、日ロ間で有効な国際約束に、1956年の【日ソ共同宣言】も含まれると発言
◇1997(平成9)年11月クラスノヤルスクにおいて、エリツィン大統領・橋本龍太郎会見「東京宣言に基づき2000年までに【平和条約】を締結するように全力を尽くす」
◇1998(平成10)年4月川奈会談、川奈合意【平和条約】が、東京宣言第2項に基づき4島の「帰属の問題」を解決することを内容とし、21世紀に向けての「日ロ友好協力」に関する原則等を盛り込むものとなるべき事。◇1998(平成10)年11月小渕首相の訪露、モスクワにおいて
ー東京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意を確認
―国境画定委員会及び共同経済活動委員会の設置を指示
  


Posted by たからふじ at 06:17Comments(0)

2025年05月17日

北方4島物語

投稿:11回目令和7/5/17(土)
〇2章c:日本国が【サンフランシスコ平和条約】により、ソビエト連邦に対し放棄した[南樺太][千島列島][満州]の中の[千島列島]の範囲に含まれるとした島に対する「日本国」「ソビエト連邦」の間に、【日ソ共同宣言】後、相反する違いがあることが浮き彫りされました。
◇日本国の主張とは、1855年(安政元年12月21日)2月7日に「徳川幕府」により、「日本国と露西亜国」の間に、【日本国・露西亜国通好条約】が調印され、北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を、「露西亜国」が、「日本国領土」と認め、「得撫島から占守島までの21島」は、「日本国」が、「露西亜国」領土と認めたことにより、「北方4島」を新ためて「日本国」領土と認識する事となりました。
◇一方、「ソビエト連邦、及び後継国家ロシア連邦政府」の[千島列島]の範囲に含まれる島々に対する解釈として、「日本国」が、1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊する戦艦甲板上において、「連合国」への降伏文書」に調印した6年後の、1951(昭和26)年9月8日に、50数か国からなる連合国が参加する【サンフランシスコ平和条約】会議において「国際法」として、「ソビエト連邦」に放棄された[千島列島]自体が、「北海道からカムチャッカ半島を構成している,ソビエト連邦名「クリル列島」を指し示すとし、その範囲には、日本国名の北方4島」(択捉島、、国後島、色丹島、歯舞群島)に(得撫島から占守島)までの21島を合わせた25島全てが含まれているとする、第3者に対してもわかり易い解説とする「地理学的視点」による解説を採用し、【サンフランシスコ平和条約】会議以後、北方4島を「ソビエト連邦」領であると主張する事となりました。
  


Posted by たからふじ at 06:26Comments(0)

2025年05月16日

北方4島物語

投稿10回目:令和7/5/16(金)
〇2章b:【日ソ共同宣言】が調印されるまで
◇1956(昭和31)年10月「ソビエト連邦」との間で【平和条約】を結ぶため、日本国代表団がモスクワを訪れます。ソビエト連邦政府は、1945(昭和20)年9月5日を始まりとして実行支配している、北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の中の(色丹島、歯舞群島)の2島を日本国へ返還を行うことを持って、日本国と【平和条約】結ぶと提案します。この条件に対し、日本国は(択捉島、国後島)の2島を織り込むとした4島の返還を強く主張します。そのため両国の交渉が折り合わず、当初【平和条約】の締結を目指していましたが、最終的には、【平和条約】に代えた【日ソ共同宣言】が調印されました。10月19日に「鳩山一郎日本国首相と「ブルガーニンソビエト連邦」首相が【日ソ共同宣言】に署名し、これにより、「日本国とソビエト連邦」間の戦争状態の終結と国交回復」がされることとなります。その際,ソビエト連邦政府は(色丹島、歯舞群島)の2島を「日本国」へ引き渡すことには同意する。但し、この2島は、【平和条約】が締結された後に、現実的に引き渡されるものと明記されました。
  


Posted by たからふじ at 05:54Comments(0)

2025年05月15日

北方4島物語

投稿9回目:令和7年5月15日
〇第2章:【サンフランシスコ平和条約】会議までの経緯
◇1945(昭和20)年9月2日、日本国は、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号甲板上において、「連合国への降伏文書」に調印したことにより、「第二次世界大戦」はこの日をもって終結します。その6年後の1951(昭和26)年9月8日「アメリカ合衆国サンフランシスコ」において、「日本国」と「アメリカ合衆国」の間に【講和会議】が開かれ【講和条約】が結ばれます。その際、「世界第二次大戦」」の講和会議も開催され、当時の「日本国吉田茂首相」が、第二次世界大戦で戦た連合国との間に【平和条約】を調印したことにより、連合国に占領されていた「日本国」は独立国となり、この条約を批准した49カ国は、「日本の主権」を承認し、この条約により「連合国」との戦争状態が終結しました。尚、調印できなかった数か国とも後年調印の運びとなりました。また、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」により【ヤルタ会談】の場において,日本国への参戦への代償に示された、[南樺太][千島列島][満州]の3項目は、【ヤルタ会談】から【カイロ宣言】をたどり【ポツダム宣言】へ、ポツダム宣言では、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域から日本は追い出さなければならないとした【カイロ宣言】の条項は履行されなければならない旨」と念を押され、最終地とした【サンフランシスコ平和条約】会議において,ソビエト連邦に対し、[南樺太][千島列島][満州]の3項目を放棄する事と定められました。また、ソビエト連邦政府は、連合国49カ国とは一線を画し、日本国との【平和条約】に調印しなかったため、「日本国」と「ソビエト連邦」の間に【平和条約】は結ばれず、この状態は今日まで尚続いています。
  


Posted by たからふじ at 06:55Comments(0)

2025年05月14日

北方4島物語

投稿:8回目令和7年5月14日
〇2章b:【日ソ共同宣言】が調印されるまで
◇【サンフランシスコ平和条約】会議から5年後、日本国においては、戦後、日本国が国際社会に復旧するために、国連安保理の常任理事国で拒否権を持つ「ソビエト連邦」との国交回復に重要なな意味がありました。また、敗戦で「シベリアに抑留された日本人」の帰還交渉も必要でした。一方ソビエト連邦」政府も、当時の「ソビエト連邦共産党最高指導者」だった「フルシチョフ第一書記長」が、「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱し、資本主義陣営との関係修復を目指していました。期せずして、「日本国」と「ソビエト連邦」共に【平和条約】締結への機運が高まります。【サンフランシスコ平和条約】会議から5年後の1956(昭和31)年10月、「ソビエト連邦」政府との間で【平和条約】を結ぶため、日本国代表団がモスクワを訪れることと成り、1956(昭和31)年10月「鳩山一郎首相、河野一郎農相」を代表とする一行は、ソビエト連邦モスクワを訪れます。
  


Posted by たからふじ at 06:18Comments(0)

2025年05月13日

北方4島物語 

投稿7回目:5月13日
◇8月9日には、一斉に「ソビエト連邦150万の軍」が国境を越えて満州に進撃を開始します。
◇14日に、日本国は、【最終降伏要求宣言】を受託する旨を連合国に通達します。
◇9月2日に、日本国政府は、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号甲板上において、連合国への降伏文書に調印した事により、「第二次世界大戦」は9月2日をもって終結しました。
検証:【ニッソ中立条約】を破棄された結果、日本国は、本来受けることのないはずの「北方4島」への侵略を受け、1946(昭和21)年には、「北方4島」が一方的に「ソビエト連邦」に編入されました。では、何故受けることのないはずの受難と言えるのか。【ニッソ中立条約】は、「日ソ両国」間で批准(国際的な条約を締結するための国が行う手続き)を終えた条約であり、【ニッソ中立条約】が消滅する1946(昭和21)年4月12日までは、(ソビエト連邦政府の立場で述べれば「日本国の北方4島」を侵略し、自国領土の拡張を計る確実性があるとしても、1年間(ニッソ中立条約」が消滅する日まで)は、「日ソ中立条約」の二乗を守ることを覚悟しておく。そこに、条約の批准を取り交わすとした目的があり、「条約国の一方の都合の良いときに破棄し」条約を無にできるとすれば、調印する最初にして、批准を取り交わす必要も生じないことになります。故にソビエト連邦政府が【ニッソ中立条約】を守る初期に示した4ケ月間の姿勢を【ニッソ中立条約】が消滅する、1946(昭和21)年4月12日まで示し続けてくれていたら、太平洋戦争は、前年度の9月2日に終結しており、日本国は,ソビエト連邦政府に、北方4島を侵略されることは在りえなっかたと言えるのです。
◇1945(昭和20)年9月5日を始まりとして「北方4島」が「ソビエト連邦」に実効支配されます。
◇1946(昭和21)年には、北方4島が、一方的に「ソビエト連邦領」に編入支配されます。/span>
  


Posted by たからふじ at 07:04Comments(0)

2025年05月12日

北方4島物語

投稿:2025(令和7)年/5/12
◇1945(昭和20)年4月5日、モスクワ駐在の佐藤尚武(なおたけ)大使をクレムリンに呼び「モロトフ外相により、覚え書きを添えて、【ニッソ中立条約】は、1946(昭和21)年4月12日に期限が切れるが延長しない方針であると伝えられた。
検証:【ニッソ中立条約】の延長を行わない旨を示されたことにより、【ニッソ中立条約】は、「1946(昭和21)年4月12日をもって消滅することが確定し、同時に、「日本国・ソビエト連邦両国」ともに、【ニッソ中立条約】が消滅する1945(昭和21)年4月12日まで【第二条:相互の中立義務】を果たすべきとした期間も確定しました。
◇1945(昭和20)年7月2日、連合国は沖縄上陸作戦終了を宣言します。連合国による沖縄上陸作戦(沖縄の占領)が終了し、日本国の敗戦は決定的な状況になりました。
◇1945(昭和20)年7月26日【ポツダム宣】(日本国への最終降伏要求宣言)が発せられ、日本国は、8月14日に、【最終降伏要求宣言】を受託する旨を連合国に通達します【ポツダム宣言】は、連合国による沖縄上陸作戦が6月23日に終了した翌月の7月26日に日本国に対しアメリカ合衆国・大英帝国・中華民国政府首脳の連名による13か条で構成された日本国への最終降伏要求宣言です。
◇1945(昭和20)年月8日には、ソビエト連邦による【ニッソ中立条約】の「第二条:相互の中立義務」を遂行している最中にも関わらず、【ニッソ中立条約】の破棄を通告されます。斯様に、日本国は、「ソビエト連邦」政府により、「第二条:相互の中立義務」を無視した【ニッソ中立条約】の一方的破棄の通告を受けます。
検証:「相互の中立義務」の意味する事とは、日本国}・ソビエト連邦両国間で、第一条:日ソ両国の友好を目的として調印された【ニッソ中立条約】であれども、条約国の一方から、不延長の通告を受けた後には、「日ソ両国の友好」を望むことが難しい状況に発展することが予測できることから、「不延長の通告後」尚1年間の間だけは、両国相争わないとの思想、知恵)より編み出されたのが、「第二条:相互の中立義務」の1年間であることは、日本国,ソビエト連邦両国共に理解していたはずでした。(言わば日本国ソビエト連邦お互いの領土の不可侵を約束した1年間であるはずでした)しかし現実として,ソビエト連邦政府は、4月12日から8月7日まで4カ月間、「第二条:相互の中立義務」を遂行している最中にも関わらず、残り約8か月間の遂行期間を放棄して、破棄の通告に加え、同時に参戦する選択を採用しました。
  


Posted by たからふじ at 07:34Comments(0)

2025年05月11日

北方4島物語

投稿:2025/5/11
◇1941(昭和16)年12月8日、日本国の対アメリカ合衆国・大英帝国への宣戦布告、当時の大英帝国領のマレー半島コタバルとアメリカ合衆国」のハワイを奇襲攻撃し、対米英戦争に突入しました。
◇1943(昭和18)年11月27日に【カイロ宣言】発せられる。戦争によって領土の拡張は求めない方針」と明記した【大西洋憲章】を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域から、日本は追い出さなければならない」との条項が追加されました。
◇1945(昭和20)年2月4日、【ヤルタ会談】開催される。【ヤルタ会談】は,ソビエト連邦のヤルタ近郷にある「りヴァディア宮殿」で開催され、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」・「チャーチル大英帝国首相」・「ルーズベルトアメリカ合衆国大統領」による連合国3首脳会談である。この会談において「ルーズベルトアメリカ合衆国大統領」は、連合国側の一国としながらも、日本国と【ニッソ中立条約】を締結している「スターリンソビエト連邦共産党書記長」に対し、対日戦への参戦を要請されます。これに対し「スターリンソビエト連邦共産党書記長」は、対日参戦することを約し、[南樺太][千島列島][満州]における権益などの代償を提示した密約がが交わされました。
  


Posted by たからふじ at 09:57Comments(0)

2025年05月10日

北方4島物語

2025/05/10
◇1905(明治38)年4月4日【ポーツマス条約】成る。日本国は、日露戦争後の【ポーツマス 条約】において、ロシア国から「樺太」(サハリン)の北緯50度以南の部分〈南樺太〉を譲り受けました。
◇1922(大正11)年12月30日に「ソビエト連邦」が誕生します。
◇1941(昭和16)4月13日に【ニッソ中立条約】が調印されます。調印された【ニッソ中立条約】は、第一条:日ソ両国の友好・第二条:相互の中立義務・第三条:条約の効力は五年間とされ期日の一年前までに条約国の一方から不延長の通告がなければ、更に五年間、自動的に延長される・第四条:速やかな批准との四条より構成されています。
◇1941(昭和16)年8月14日【大西洋憲章】宣言される。連合国側の「ルーズベルトアメリカ合衆国大統領」・「チャーチル大英帝国首相」による、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき「戦争によって領土の拡張は求めない方針」と明記した【大西洋憲章】に署名される。連合国側の3首脳の一人である「スターリンソビエト連邦共産党書記長」も、【大西洋憲章】の支持を一早く示され、翌9月に【大西洋憲章】への参加を表明されています。/span>
>  


Posted by たからふじ at 16:13Comments(0)

2025年05月09日

5月9日の記事

投稿日:2025/05/09
第1章:1855(安政元年12月21日)年2月7日に、日本国と露西亜国の間で【日本国・露西亜国通好条約】が調印されて、北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は日本国領と画定していましたが、91年後の1946(昭和21)年に、「ソビエト連邦に占拠され、その後ソビエト連邦に編入されます。その間の経緯を検証文を添えながら追う記事としています。 


1855(安政2)年21日、日露間においては、【日本国・露西亜国通好条約】が調印されて、北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は、「露西亜国」が認める「日本国領土」に画定し、「得撫島」から占守島までの21島は、日本国が認める「露西亜領土に画定しました。また、樺太においては、「日本国人・露西亜国人共住とする権利を両国共に獲得することになりました.*【日本国・露西亜国通好条約】の詳細については、第7章:北方四島の成り立ちおいて詳細として記しています。

◇1875(明治8)年5月7日に日本国は、樺太に有する「共住の権利」と【日本国・露西亜国通好条約】により、「露西亜国土」と確定している「得撫島から占守島迄の21島」を〘千島〙として【樺太・千島交換条約】により日本国領土としたことにより、結果として、北海道本島からカムチャッカ半島までの25島(ロシア連邦名):クリル列島】を日本国領土としました。しかし、この状態は1945(昭和20)年9月5日を始まりとして「北方4島」が「ソビエト連邦」に実効支配され、一方的に「編入」されるまでの70年間続きました。
>
  


Posted by たからふじ at 06:07Comments(0)

2025年05月08日

北方4島物語

北方4島物語目次
第1章:1855(安政2)年2月7日、日本国と露西亜国の間で【日本国・露西亜国通好条約】が調印され、北方4島{択捉島(えとろふ島)、国後島(くなしり島)、色丹島(しこたん島、)歯舞群島(はぼまい群島)}は、「露西亜国」が認める日本国領と画定していましたが、91年後の1946(昭和21)年に、「ソビエト連邦」に占拠され、編入されます。その間の経緯を、検証文を添えながら追うきじとしています。
第2章:【サンフランシスコ平和条約】会議から【日ソ共同宣言】の調印、田中角栄首相の訪露を始まりとし、森喜朗首相、小泉純一郎首相とプーチンロシア連邦大統領友との会談記事
第3章:安倍晋三首相とプーチンロシア連邦大統領との会談により、合意されたと見るべき【平和条約】を締結し、2島の返還を実現するとの案は、どのような過程を得て成立したのか、及び、合意されたとする3案の成立を目指されるも「ラブロフ外相」による、合意案成立の拒絶とも取れる談話により、結果として生じた「安倍首相の遺産
第4章:安倍首相の遺産
第5章:特別枠として設けた章
第6章:北方四島の成り立ち
第7章:北方四島に含まれている択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の説明
第8章:北方領土の日に寄せられた「岸田首相の挨拶文の紹介
  


Posted by たからふじ at 07:08Comments(0)

2025年05月07日

北方4島物語

1945(昭和20)年2月4日に、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」・「チャーチル大英帝国首相」・「ルーズベルトアメリカ合衆国大統領」による連合国3首脳による「ヤルタ会談」が開催されます。この会談において「ルーズベルトアメリカ合衆国大統領」は、連合国の1国としながらも、、日本国と【ニッソ中立条約】を締結している「スターリンソビエト連邦共産党書記長」に対し、対日本国への参戦を要請されます。この要請に対し、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」は、参戦することを約し、[南樺太][千島列島][満州]における権益などの代償を示した密約がかわされます。「ヤルタ会談」から6年後、代償にと示された[南樺太][千島列島][満州]の3項目は、1951 (昭和26)年9月8日に開催された【サンフランシスコ平和条約】会議において、「ソビエト連邦」に対し放棄する事と定められました。この放棄した3項目の中の[千島列島]の範囲に、北方4島{択捉島(えとろふ島、国後島(くなしり島)、色丹島(しこたん島、)歯舞群島(はぼまいぐん島)}が、「含まれているのか」「含まれていないのか」とした筆者個人の精査の結果としては、「含まれていない」との判断に達し「含まれている」とすべきは、{得撫島(うるっぷ)島}から、カムチャッカ半島までとした占守島(シュムシュ島)までの21島のみであるとの結論を得ました。以下それまでに至る精査の経緯を第1章から第8章により説明します。
  


Posted by たからふじ at 11:46Comments(0)