2025年05月15日
北方4島物語
投稿9回目:令和7年5月15日
〇第2章:【サンフランシスコ平和条約】会議までの経緯
◇1945(昭和20)年9月2日、日本国は、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号甲板上において、「連合国への降伏文書」に調印したことにより、「第二次世界大戦」はこの日をもって終結します。その6年後の1951(昭和26)年9月8日「アメリカ合衆国サンフランシスコ」において、「日本国」と「アメリカ合衆国」の間に【講和会議】が開かれ【講和条約】が結ばれます。その際、「世界第二次大戦」」の講和会議も開催され、当時の「日本国吉田茂首相」が、第二次世界大戦で戦た連合国との間に【平和条約】を調印したことにより、連合国に占領されていた「日本国」は独立国となり、この条約を批准した49カ国は、「日本の主権」を承認し、この条約により「連合国」との戦争状態が終結しました。尚、調印できなかった数か国とも後年調印の運びとなりました。また、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」により【ヤルタ会談】の場において,日本国への参戦への代償に示された、[南樺太][千島列島][満州]の3項目は、【ヤルタ会談】から【カイロ宣言】をたどり【ポツダム宣言】へ、ポツダム宣言では、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域から日本は追い出さなければならないとした【カイロ宣言】の条項は履行されなければならない旨」と念を押され、最終地とした【サンフランシスコ平和条約】会議において,ソビエト連邦に対し、[南樺太][千島列島][満州]の3項目を放棄する事と定められました。また、ソビエト連邦政府は、連合国49カ国とは一線を画し、日本国との【平和条約】に調印しなかったため、「日本国」と「ソビエト連邦」の間に【平和条約】は結ばれず、この状態は今日まで尚続いています。
〇第2章:【サンフランシスコ平和条約】会議までの経緯
◇1945(昭和20)年9月2日、日本国は、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号甲板上において、「連合国への降伏文書」に調印したことにより、「第二次世界大戦」はこの日をもって終結します。その6年後の1951(昭和26)年9月8日「アメリカ合衆国サンフランシスコ」において、「日本国」と「アメリカ合衆国」の間に【講和会議】が開かれ【講和条約】が結ばれます。その際、「世界第二次大戦」」の講和会議も開催され、当時の「日本国吉田茂首相」が、第二次世界大戦で戦た連合国との間に【平和条約】を調印したことにより、連合国に占領されていた「日本国」は独立国となり、この条約を批准した49カ国は、「日本の主権」を承認し、この条約により「連合国」との戦争状態が終結しました。尚、調印できなかった数か国とも後年調印の運びとなりました。また、「スターリンソビエト連邦共産党書記長」により【ヤルタ会談】の場において,日本国への参戦への代償に示された、[南樺太][千島列島][満州]の3項目は、【ヤルタ会談】から【カイロ宣言】をたどり【ポツダム宣言】へ、ポツダム宣言では、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域から日本は追い出さなければならないとした【カイロ宣言】の条項は履行されなければならない旨」と念を押され、最終地とした【サンフランシスコ平和条約】会議において,ソビエト連邦に対し、[南樺太][千島列島][満州]の3項目を放棄する事と定められました。また、ソビエト連邦政府は、連合国49カ国とは一線を画し、日本国との【平和条約】に調印しなかったため、「日本国」と「ソビエト連邦」の間に【平和条約】は結ばれず、この状態は今日まで尚続いています。
Posted by たからふじ at 06:55│Comments(0)