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2025年05月14日

北方4島物語

投稿:8回目令和7年5月14日
〇2章b:【日ソ共同宣言】が調印されるまで
◇【サンフランシスコ平和条約】会議から5年後、日本国においては、戦後、日本国が国際社会に復旧するために、国連安保理の常任理事国で拒否権を持つ「ソビエト連邦」との国交回復に重要なな意味がありました。また、敗戦で「シベリアに抑留された日本人」の帰還交渉も必要でした。一方ソビエト連邦」政府も、当時の「ソビエト連邦共産党最高指導者」だった「フルシチョフ第一書記長」が、「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱し、資本主義陣営との関係修復を目指していました。期せずして、「日本国」と「ソビエト連邦」共に【平和条約】締結への機運が高まります。【サンフランシスコ平和条約】会議から5年後の1956(昭和31)年10月、「ソビエト連邦」政府との間で【平和条約】を結ぶため、日本国代表団がモスクワを訪れることと成り、1956(昭和31)年10月「鳩山一郎首相、河野一郎農相」を代表とする一行は、ソビエト連邦モスクワを訪れます。



Posted by たからふじ at 06:18│Comments(0)
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